宮西真冬 「誰かが見ている」
あらすじを読んで気になったので読んでみました。
主人公の女性は思い通りにならない我が子が自分の子供ではないと感じており向き合うことが出来ずにいた。保育園からも子の問題行動が原因で疎まれており、周囲から見下されているのが屈辱だったことから嘘の育児ブログを投稿して周囲からの称賛を集めているという状況であった。あるとき保育園から自分の子がいなくなったと知らされるが、連れ去った人物には心当たりがありこのまま子が見つからなくても問題ないのでは?という考えがよぎる。
子を連れ去ったのは何者なのか?彼女がこんなにも子と向き合えなくなったのはなぜか?を過去の回想を辿って描いているというお話。
母親と子育てをテーマにした作品となります。
子育てやパートナーとの関係に悩む女性たちの視点で物語が進みます。子と向き合えない母親、不妊治療をしたいが夫が非協力的な妻、子供が嫌いなのにパートナーに子を強く望まれてしまう女性、などその状況はどれも深刻であり描写のリアルさも相まってイヤミスに近いような雰囲気になっています。心理描写の仕方が非常に上手いのでこちらが本作の見所となります。
後半の方にはなぜそんな状況になってしまったのか?をそれぞれが考えだし、周囲やパートナーと本音で向かい合い始めることで事態が好転しはじめて少し救われるような展開がありました。誰しもが似たような事態に遭遇したことがおそらくあると思いますので共感したり、自身の悩みについての気づきがあったりするのではないでしょうか。
作中ではこの「本音を言う」にフォーカスがあたることが多かったので、おそらく悩む女性たちに著者が伝えたかったのはこの部分なのだろうと読み取れました。
作中にて自分の望んだ通りの子供が生まれたら子育てを頑張れるのに、と悩む母親がいました。この母親は女の子を望んでいたが、産まれたのが男の子だったためにこういった状態になったと描写されていました。
何かの記事で性別を選ぶことが今の技術なら可能、と読んだ覚えがあります。いわゆるデザインベイビーの問題なのですが、倫理観などの社会的な問題は置いておき本当に望んだ子が産めたら上記の母親の悩みがどうなるかを考えてみました。
結論からいうと子育てに対してのプレッシャーが高まるでしょう。具体的に言うと子の方は完璧に望んだものを用意したのだから、完璧な子に育たなかったらすべて親の責任という風潮におそらくなります。そうなると「自分の望んだ通りの子供なのになんで上手くいかないの」という上記の悩みを裏返しただけのものに悩まされるような気がします。私は子育てをしたことがないので子育ての苦労は想像するしかできませんが、子育ては不確実なものという位置づけだからこそ何かあっても世間が大目に見てくる部分もあるのではないでしょうか。
女性がブログにいいねとコメントが集まっていた時の高揚感が忘れられず必死にネタを探すというシーンがありました。私もこういった文章の書評を長いことネットに公開していますが、いいねを稼ごうと考えたことは特にありませんでした。というのも私の書評の形態はいいね集めにはまったく向いていないからです。
以前別の本で言及されていたのですが、ネットコンテンツは笑い、エロ、暴力の3強が圧倒的に強いそうです。この3強のどれかを文章の書評で出すにはかなり難易度が高く、仮に表せたとしても動画の方が圧倒的に強いです。やるとしたら動画化と読み上げは必須で、3強のどれかを強調した内容で支持者を固めてから徐々に書評メインにシフトしていく、というやり方かなと思います。どうしても文章の書評で3強のどれかをやるとしたら暴力が一番やりやすいかなと思います。差別的な内容の本を取り上げて、その差別の正当性を主張すれば暴力のコンテンツとして成立するのではないでしょうか。
ちなみに所属する読書のコミュニティの中で私が見た一番いいね/コメントを集めていたのは「せっかくなので本の表紙と同じ色合いのノースリーブワンピース着てみました」という写真付き投稿でした。比較的にお堅い人が集まりそうな読書のコミュニティですらこういった傾向なので、書評によりネット上で注目を集めたければ上記の3強との絡みは必須と見ていいでしょう。
女性だけでなく男性側の視点でも大事な考え方が描かれていましたので、子育てをされている方々にぜひ読んでみていただきたいです。